最高裁判所第一小法廷 昭和62年(オ)1408号 判決 1991年10月17日
上告人
小松伊之助
右訴訟代理人弁護士
石戸谷豊
被上告人
須藤順子
右訴訟代理人弁護士
佐野國男
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人石戸谷豊の上告理由について
所論の点に関する原審の事実認定は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。
右事実関係によれば、上告人は、その所有に係る木造二階建の本件建物の一階の一部を総合衣料品類販売店舗として被上告人に賃貸し、その余の一階部分及び二階全部を自ら住居として使用し、本件建物の火気は、主として上告人の使用部分にあり、上告人の火気の取扱いの不注意によって失火するときは、被上告人の賃借部分に蔵置保管されている衣料品類にも被害が及ぶことが当然に予測されていたところ、上告人の使用部分である一階の風呂場の火気の取扱いの不注意に起因する本件失火によって被上告人の賃借部分に蔵置保管されていた衣料品等が焼失し、被上告人はその価額に相当する損害を被ったものというべきであるから、上告人は右被害について賃貸人として信義則上債務不履行による損害賠償義務を負うと解するのが相当である。
右によれば、原審の認定に係る被害額の限度で上告人の損害賠償義務を認めた原審の判断は、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は採用することができない。
よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官大堀誠一 裁判官大内恒夫 裁判官四ッ谷巖 裁判官橋元四郎平 裁判官味村治)
上告代理人石戸谷豊の上告理由
原判決は、本件火災が上告人の故意又は過失により生じたものでないことを認めるに足りる証拠はないとして、上告人の賃貸人としての賃貸借契約上の債務不履行により被上告人の受けた損害を賠償すべき義務があるとして、その損害としては二〇〇〇万円と認定した。
しかし、原判決の右判断には法令違背の違法があり、このため判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、原判決は破棄されるべきものである。
以下その理由を詳述する。
一 (損害賠償の範囲の点)
1 原判決は、前記のとおり賃貸借上の債務不履行による被上告人の損害として二〇〇〇万円と認定している。
右二〇〇〇万円の損害の内容は、原判決によれば「(被上告人が)本件火災により焼失した衣料品、インテリア用品、什器備品、内装設備等の焼失当時の価額合計は二〇〇〇万円であり」「(被上告人は)本件火災により同額の損害を被ったものであると認めるのが相当である」としているところから明らかである。すなわち、賃借人たる被上告人の動産類ということになる(原判決は、動産以外のものとして内装設備を挙げているが、その額については何ら明確にしていない)。
そこで、原判決は、「建物賃貸借について、その債務不履行により動産類が焼失した場合、賃借人の動産類焼失は右債務不履行により賠償されるべき損害の範囲に含まれる」との前提に立っていることが明らかである。
しかし、これは債務不履行の損害の範囲につき解釈を誤ったものである。本項においては、この点についてまず論ずるものである。
2 一般に、賃貸人の債務不履行により賃貸建物が焼失した場合、賃借人の動産類の焼失による損害の賠償を認めるべきか否かについては争いがあり、下級審の裁判例も統一されていない。しかし、裁判例としては、かつては右につき積極に解するものが多かったが、近時は逆に消極に解している。これを整理すると次のとおりである。
(積極例)
(一) 東京高判昭和四九年一二月四日(判時七七一・四一)
(二) 東京地判昭和五一年四月一五日(判時八三九・九一)
(三) 東京地判昭和五二年三月三〇日(判時八七〇・八二)
(消極例)
(一) 大阪地判昭和五六年六月一六日(判タ四五五・一三五)
(二) 東京地判昭和五九年四月二四日(判時一一四二・六四)
積極に解する裁判例においては、賃貸人は賃借人に使用収益させる義務のほか、その賃借部分を賃貸借の目的の範囲内で使用収益するために設置保管している物を損傷して賃借人に損害を与えないように賃貸部分を管理する義務があるとしているようである。しかし、消極例の(一)の裁判例では、使用収益義務の具体的内容は当該契約の趣旨・内容によって定められるものであるとして、賃貸人が使用収益義務の内容として当然に賃借人所有の動産類の安全管理義務を負うことを否定する。消極例の(二)の裁判例も同旨であり、「原告らが本訴において主張する動産類焼失という損害は、被告らが原告らに賃貸家屋を使用収益させていた間に発生した本件火災により生じたものであって、被告らが賃貸家屋を原告らに使用収益させるべき債務を履行しなかったことが原因で、その結果として生じたものということはできないから、原告らは火災発生につき不法行為責任を負うべき者に対し、その賠償を求めることは格別、家賃の賃貸人である被告らに対し、債務不履行による損害としてその賠償を求めることはできないというべきである」としてその理を明確にしている。
3 思うに、積極例の裁判例は、賃借人の所有動産類に対する賃貸人の安全管理義務を厳密な理論的検討を加えることなく認めているところに問題がある。賃貸借契約においては、賃貸人の義務とされるのは使用収益させる義務であって、その内容は目的物を賃借人に引渡し、かつ賃貸期間中これを使用収益に適した状態におくことであり、かつそれをもって足りるものである。右の使用収益させる義務を中心として、修繕義務・費用償還義務・担保責任が生じるわけであって、それ以上に賃借人の所有動産類に対する安全管理義務というものがあるわけではない。積極に解する裁判例は、この点において法令の解釈を誤っていると言える。
消極例の裁判例は、賃貸借契約における賃貸人の義務を正しく解釈し、賃貸建物の焼失の場合においては賃貸人が債務不履行責任を負うべき範囲を明確にし、それ以外の部分については不法行為責任の分野であると整理しているわけである。
4 さらに、賃貸人の責に帰すべき事由によって賃貸物件を使用収益させる義務が不能となった場合の損害の範囲については、土地賃貸借に関しては判例があるわけであるから、当然この点も考慮されるべきである。
すなわち、右の点についての損害の範囲については、原則として賃借権価格とするのが判例であり(最判昭和三七年七月二〇日民集一六・八・一五八三)、下級審の裁判例もこれに従っている(東京高判昭和四四年八月八日判時五六九・四九、東京高判昭和五二年一一月九日判時八七六・八九)。
これは、使用収益させるべき義務が不能となったこと自体が損害と考えられているわけであり、建物賃貸の場合には同様に考えた場合借家権価額ということもできよう。いずれにせよ損害とされるべきは使用収益させるべき義務が不能となったことそれ自体であって、それ以上に「安全管理義務」などというものを認めて右義務違反と因果関係のあるすべての損失を損害とする考え方が妥当でないことは明らかである。
建物賃貸借の場合においても、最高裁判所が判断を下すことによりこの問題の判例を明らかにすべきであると考える。
二 (損害額の認定について)<省略>